休館日
月曜日(祝祭日の場合は翌日)
毎月最終火曜日
年末年始
その他展示替え期間などの臨時休館あり
開館時間
5月〜10月
午前9:00〜午後6:00(入館は5:30まで)
11月〜4月
午前9:00〜午後5:00(入館は4:30まで)

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  1. 中原中也について

中原中也について

中原中也について

  • 中原中也
  • 山羊の歌
  • 在りし日の歌
文学史上に大きな足跡を残した近代詩人中原中也は、明治40〈1907〉年4月29日、現在の山口市湯田温泉に生まれました。 下宇野令尋常高等小学校、山口師範学校附属小学校から山口中学校に入学。小学校高学年より短歌を制作、雑誌や新聞の歌壇に投稿をはじめます。その後、ますます文学に熱中し、中学3年で落第。立命館中学へ転校のため京都へ移り、高橋新吉や富永太郎の影響を受けて、詩人としての道を歩み始めます。 大正14〈1925〉年上京。小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らを知り、昭和4〈1929〉年、河上ら友人たちと同人誌「白痴群」を創刊。昭和9〈1934〉年には、第一詩集『山羊の歌』を出版し、詩壇に認められるに至りました。「四季」「歴程」「文学界」などの雑誌にも詩を発表。また、フランス詩の翻訳も手がけ、訳詩集『ランボオ詩集』も刊行します。 昭和12〈1937〉年10月22日、山口への帰郷を願いつつ、鎌倉の地で30年の短い生涯を閉じました。自らまとめ、小林秀雄に託した第二詩集『在りし日の歌』は、友人たちの尽力で昭和13〈1938〉年4月に刊行されました。 その生涯を詩人として生き抜いた中也は、珠玉の詩篇を後世に残し、日本をはじめ海外にも知られ、多くの人々に愛されています。

中也の生涯

明治40年 <1907年> (0歳) 4月29日、父謙助、母フクの長男として、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村に生まれる。 11月以降、母とともに父の任地である中国の旅順・柳樹屯で暮らす。
明治42年 <1909年> (2歳) 3月、父の転勤で広島に転居。
明治45年 <1912年> (5歳) 9月、父の転勤で金沢に転居。
大正3年 <1914年> (7歳) 3月、山口に帰る。 4月、下宇野令尋常高等小学校に入学。
大正4年 <1915年> (8歳) 1月、弟亜郎病没。亡弟亜郎を歌ったのが詩作の始まり。
大正7年 <1918年> (11歳) 5月、山口師範学校附属小学校に転校。
大正9年 <1920年> (13歳) 2月、「防長新聞」に投稿した短歌が入選。以後投稿を続ける。 4月、県立山口中学校に入学。文学に耽り、次第に学業を怠るようになる。
大正11年 <1922年> (15歳) 4月(推定)、山口中学校の上級生宇佐川紅萩、「防長新聞」の若手記者吉田緒佐夢と共著で私家版の歌集『末黒野』を刊行。
大正12年 <1923年> (16歳) 3月、落第。 4月、京都の立命館中学第3学年に編入学。 秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』を読み、ダダイズムの詩を書き始める。 12月、表現座に所属していた3歳年上の長谷川泰子を知る。
大正13年 <1924年> (17歳) 4月、長谷川泰子と同棲。 7月、富永太郎を知り、以後交友。フランス象徴詩を学ぶ。
大正14年 <1925年> (18歳) 3月、泰子と共に上京。 4月、小林秀雄と知り合う。 11月、富永太郎病没。泰子、小林の許に去る。
大正15 昭和元年 <1926年> (19歳) 4月、日本大学予科に入学。 5月~8月、「朝の歌」を書く。 9月、家族に無断で日本大学を退学。 11月、この頃、語学学校アテネ・フランセに通う。
昭和3年 <1928年> (21歳) 5月、音楽団体スルヤ発表演奏会で「朝の歌」「臨終」が歌われ、歌詞として機関誌「スルヤ」に掲載される。 父謙助病没。 小林、泰子の許を去る。
昭和4年 <1929年> (22歳) 4月、同人誌「白痴群」創刊。
昭和5年 <1930年> (23歳) 4月、「白痴群」が6号で廃刊となり、主要発表誌を失う。 12月、泰子が山川幸世の子どもを産み、その名付け親となる。
昭和6年 <1931年> (24歳) 4月、東京外国語学校専修科仏語に入学。 9月、弟恰三病没。のちに追悼詩および小説「亡弟」を書く。
昭和7年 <1932年> (25歳) 4月、詩集『山羊の歌』の編集に着手。 6月、『山羊の歌』の予約募集をするが、10名程度の申し込みしかなかった。 9月、母からもらった300円で『山羊の歌』の印刷にかかるが、資金不足で刊行に至らず。
昭和8年 <1933年> (26歳) 3月、東京外国語学校専修科修了。 5月、「紀元」の同人となる。 12月、遠縁の上野孝子と結婚。訳詩集『ランボオ詩集《学校時代の詩》』を三笠書房より刊行。
昭和9年 <1934年> (27歳) 10月、長男文也が誕生。 12月、『山羊の歌』を文圃堂書店より刊行。
昭和10年 <1935年> (28歳) 1月、小林秀雄が「文学界」の編集責任者となり、中也は自由な発表の場を得る。 5月、「歴程」の同人となる。 12月、「四季」の同人となることを承諾。
昭和11年 <1936年> (29歳) 6月、訳詩集『ランボオ詩抄』を山本書店より刊行。 9月、NHKの入社面接を受けるが、就職せず。 11月、文也病没。 12月、次男愛雅が誕生。 12月、神経衰弱が昴じる。
昭和12年 <1937年> (30歳) 1月、千葉市の中村古峡療養所に入院。 2月、退院。鎌倉に転居。夏、帰郷を決意する。 9月、訳詩集『ランボオ詩集』を野田書房より刊行。詩集『在りし日の歌』を編集、清書して、小林秀雄に託す。 10月、結核性脳膜炎を発病、入院。 10月22日、永眠。
昭和13年 <1938年> 1月、愛雅病没。 4月、『在りし日の歌』が創元社より刊行される。
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